安倍内閣が2020年9月16日をもって総辞職が告げられました。
なんと安倍元総理は通算3188日と9年弱総理大臣を務めていたことになります。
連続在任日数も2822日と最長記録。
どちらも歴代で最長の任期となりました。
安倍前総理によって歴代最長が更新されましたが、あなたは歴代最短の総理大臣を知っていますか?
今回は「歴代の総理大臣で最も任期が短いのは誰?その理由も併せて紹介!」ということで総理大臣としての任期が短かった方々をその理由も併せて紹介します。
目次
歴代の総理大臣で最も任期が短いのは誰?その理由も併せて紹介!
ではさっそく総理大臣としての任期が短い順に紹介します!
思っている以上に任期が短いので驚くこと間違いありません!
林銑十郎(はやし せんじゅうろう)123日
引用元:JIJI.com
1937年2月2日〜6月4日まで第33代内閣総理大臣を務めていました。
なんと首相兼任で文部大臣や外務大臣も務め、総理大臣辞職後は陸軍大臣としての務めも果たしていました。
1937年2月2日〜6月4日(林内閣) | 第33代 内閣総理大臣 |
1937年2月2日〜6月4日(林内閣) | 第46代 文部大臣(首相兼任) |
1937年2月2日〜3月3日(林内閣) | 第53代 外務大臣(首相兼任) |
1934年1月23日〜1935年9月5日(齋藤内閣・岡田内閣) | 第39〜40代 陸軍大臣 |
あまり評判の良い内閣ではなく、少数の閣僚が大臣を兼務していたことから二人三脚内閣と呼ばれいました。
また、予算の成立後に突如内閣を解散するという驚きの行動を起こし、予算成立という御馳走のみを食べたと言われ「食い逃げ解散」と言われていました。
可決された予算案の中身を見て政党のあり方が政府に対して翼賛的ではないとし、衆議院を解散したようです。
宇野宗佑(うの そうすけ)69日
引用元:Wikipedia
1989年6月3日〜8月10日まで第75代内閣総理大臣を務めていました。
1989年6月3日〜8月10日(宇野内閣) | 第75代 内閣総理大臣 |
1987年11月6日〜1989年6月3日(竹下内閣) | 第115代 外務大臣 |
1983年6月10日〜1983年12月27日(中曽根内閣) | 第44代 通商産業大臣 |
1979年11月9日〜1980年7月17日(大平内閣) | 第44代 行政管理庁長官 |
1976年12月24日〜1977年11月28日(福田内閣) | 第31代 科学技術庁長官 |
総理時代の評価は在任期間が69日とかなり短かったため評価不能とされています。
辞任の理由は週刊誌によるスキャンダルの発覚です。
女性に対して金銭で交際を持ちかけたということで話題になったようですが、スキャンダル元は女性が週刊誌に暴露したようです
石橋湛山(いしばし たんざん)65日
引用元:Wikipedia
1956年12月23日〜1957年2月25まで第55代内閣総理大臣を務めていました。
1956年12月23日〜1957年2月25日(石橋内閣) | 第55代 内閣総理大臣 |
1956年12月23日〜12月27日(石橋内閣) | 第9代 郵政大臣 |
1954年12月10日〜1956年12月23日(鳩山内閣) | 第12.13.14代 通商産業大臣 |
1946年5月22日〜1947年5月24日(石橋内閣) | 第50代 内閣総理大臣 |
ジャーナリストから政界へと歩みを進め65日間内閣総理大臣を務めました。
終戦後アメリカに勇気ある要求をした結果、国内からは「心臓大臣」と呼ばれるがアメリカからは嫌われ、GHQにより公職から追放された過去があります。
辞職に至った経緯は脳梗塞によるものと言われています。また、肺炎も起きていたと報道ではありました。
1957年度の予算審議という重大案件の中での辞任表明には「潔い」と野党でさえ好意的でありました。
羽田孜(はた つとむ)64日
引用元:Wikipedia
1993年4月28日〜6月30日まで第80代内閣総理大臣を務めていました。
1993年4月28日〜6月30日(羽田内閣) | 第80代 内閣総理大臣 |
1993年8月9日〜1993年4月28日(細川内閣) | 第121代 外務大臣 |
1991年11月5日〜1992年12月12日(宮澤内閣) | 第96代 大蔵大臣 |
1988年12月27日〜1989年6月3日(竹下内閣) | 第12代 農林水産大臣 |
1985年12月28日〜1986年7月22日(中曽根内閣) | 第9代 農林水産大臣 |
64日での辞職の理由は「内閣不信任案」です。
羽田内閣は首班指名選挙後に社会党を除く他の会派が統一会派を組むことを発表し、それに対して社会党が反発し連立を離脱し、少数与党として発足していました。
予算審議中は社会党も予算編成に携わっていたため予算の成立までは羽田内閣に協力していました。
予算成立後に自民・社会共同で「内閣不信任案」を提出する動きを見せて、両党の賛成で可決されることが確実だったため潔く総辞職をしました。
東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや なるひこ)54日
引用元:Wikipedia
1945年8月17日〜10月9日まで第43代内閣総理大臣を務めていました。
1945年8月17日〜10月9日(東久邇宮内閣) | 第43代 内閣総理大臣 |
1945年8月17日〜8月23日(東久邇宮内閣) | 第34代 陸軍大臣(首相兼任) |
1907年12月3日〜1946年5月23日 | 貴族院議員 |
過去最短である54日での辞職です。
第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣に就任しました。
内閣総理大臣として連合国に対する幸福文書の調印や軍の解体と復員などなどを実施しました。
しかし、自由化対策をめぐるGHQと内務省による対立とGHQによる内政干渉に抵抗の意思を示すために歴代の最短在任期間で総辞職を行いました。
まとめ:政治の世界では潔いのが好まれる
「歴代の総理大臣で最も任期が短いのは誰?その理由も併せて紹介!」と言うことで紹介してきました。
思っていた以上に短い任期ではなかったでしょうか?
それぞれに理由はありますが、日本は昔から他国と比べると国のトップの任期が短いです。
安倍元総理大臣の2822日は苦難の道だったと思いますが、日本を引っ張っていってくださったと思います。
次は、菅内閣を国民が支えていきましょう。
2021年5月28日
間違いのご指摘いただきありがとうございます。
訂正いたしました。
今後ともよろしくお願いいたします。
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